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(二)藏屋敷址

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 【四箇所】德川時代藏屋敷の舊址は舊市内部に四箇所ある。卽ち堺、河州長曾根村、甲斐庄善右衞門、北條伊勢守等のものである。
 【堺藏屋敷址】〔堺藏屋敷址〕 元祿二年の堺大繪圖に今の櫛屋町東二丁字山口筋東方南北二筋を藏屋敷町と記してゐるから、同所にあつた事が知られる。其記載當時既に町屋敷となつて舊址は確實に知られない。
 【長曾根村藏屋敷址】〔河州長曾根村藏屋敷址〕 熊野町東六丁大小路橋西詰北側に所在した。元祿二年の堺大繪圖には所在町名を向井領町と記し、大小路に南面した東側十一間半(新間十二間二七寸五分)西側十四間半(新間十五間四二寸五分)北側十間(新間十間五)の境域に二間(新間二間一)に六間(新間六間三)の土藏が中央に存してゐた。
 【甲斐庄喜右衞門藏屋敷址】〔甲斐庄喜右衞門藏屋敷址〕 江戸の旗本甲斐庄喜右衞門藏屋敷は熊野町東五丁熊野尋常小學校敷地東北隅にあつた。【元祿二年の狀態】元祿二年の堺大繪圖には甲斐庄飛驒守藏屋敷として南向井領町に南面してゐる。周圍東は町家を隔てゝ内農人町筋、西は大通庵、南は大通庵屋敷、甲斐庄飛驒守屋敷、大和屋了感掛屋敷、北は大通庵に接した南側東西十九間四五寸(新間二十一間二)北側東西十五間四五寸(新間十七間)西側南北九間四五寸(新間十間三)の境域であつた。飛驒守は正親、喜右衞門は正房である。正房元和役後功によつて河内國錦部郡に采地を得(寬政重修諸家譜)後此地に藏屋敷を設けて子孫に傳へ、元祿頃には孫正親に至つた。元祿十七年改堺手鑑には北向井領と記し、屋敷名代を表具屋傳兵衞と記してゐる。【舊址】舊址は大通庵の南、熊野尋常小學校東北隅に當る所である。當屋敷南隣にあつた甲斐庄飛驒守屋敷は今の熊野尋常小學校西南隅より東二十五間(新間二十七間五寸)の所にあつて南面し、東西三間(新間三間一五寸)南北十五間(新間十六間一五寸)の境域を有してゐた。(元祿二年改堺大繪圖)
 【北條氏藏屋敷址】〔北條氏藏屋敷址〕 神明町西二丁にあつて、時代により其稱呼を異にしてゐる。卽ち元祿二年の堺大繪圖は氏規の孫伊勢守氏治の代であつたから、北條伊勢守藏屋敷、同十七年改堺手鑑は氏治の養子左京氏朝の時とて北條左京藏屋敷と記してゐる。【元祿二年の狀態】其地域右の大繪圖には神明町濱の道路を挾んで東西兩側に記され、東側は濱の北角より九間小半(新間十間一寸二分五厘)南にあつて、表口四間半(新間四間五二寸五分)裏入十五間半(新間十六間四七寸五分)、西側は東側と相對して表口四間(新間四間二)裏入十四間半(新間十五間四二寸五分)を示してゐる。【舊址】現在東側の舊址は神明町西二丁六番地ノ一[有限責任]打刄物製造購賣組合事務所たる木村莊吉氏住宅の表中程より以南同丁七番地小谷留五郞氏住宅に至る間、西側舊址は同丁十七、十八番地川西辰造氏使用の物置場を初めとし、附近一帶の空地に相當する。其東側舊地の一部たる同丁六番地金井惣十郞氏の談に、同氏幼少の頃西側の屋敷は未だ米藏として存したが、東側は既に人家であつたとのことである。最近(昭和四年春)まであつた西側物置の入口は往時の長屋塀で北條家の定紋三鱗の丸瓦を用ひてゐたが、今は悉く失はれてゐる。此屋敷は北條氏規が天正十九年河内國丹南郡に釆地を得てより後建設せられた藏屋敷である。