德川幕府最初の堺奉行成瀨正成の掛屋敷となつた綾堀屋敷(堺町奉行歷代記錄)は、【所在】柳之町西三丁にあつた。【元祿二年の狀態】元祿二年の堺大繪圖には柳之町上濱と下濱とに屋敷があつて、上濱は東面表に二十間(新間二十一間四尺)裏入八間(新間八間四尺)を記してゐる。下濱は東西三箇所に列び、東端は前記上濱の屋敷と脊中合せに西面して表口、裏入共に前者と同じく、中央は東端の下濱屋敷と道路を中にして西面し、表口前同樣、裏入十六間(新間十七間二尺)西端の屋敷は中央の屋敷と道路を挾んで東面し、表口前同樣裏入十八間(新間十九間三尺)を記してゐる。又同圖に下濱(西端)屋敷に續く西方の空地及び海上にかけて成瀨隼人正屋敷と記してゐる。【舊址】是等屋敷の總範圍は現今の柳之町西三丁及び其西方内川に跨つた區域である。尤も其東方北側の一部は成瀨屋敷に北鄰した會所地であつたから、之は除外されてゐる。今日同町西三丁にある稻荷小祠の傍なる老木は成瀨屋敷のものを傳へたのではなからうか。德川時代屋敷は諸役を免除せられて芝辻理右衞門が管轄し、中頃以後に上濱と下濱東端との兩屋敷間に幅二間の公儀道が現れた。(享保四年手鑑)此道路は元祿二年堺大繪圖にも、同八年、同十七年の兩手鑑にも記されてゐないが、最初から小路があつたのを後に幅員を增し、公儀道路としたのであらう。