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中期の土器

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 縄文時代中期は、前期からひき続いて温暖な気候のもとに安定した生活が展開された。内陸部では、狩猟や植物の採集などが、海岸部では、漁撈、狩猟が活発に行われた。オニグルミ、クリ、ヤマブドウ、キハダ、マタタビなど植物性食糧も積極的に利用された。土器からみると、道南部には円筒上層式土器とそれに後続する土器が分布する。渡島半島では、対岸の東北地方北部と密接な関連をもって円筒上層a式、円筒上層b式と推移する。円筒形の土器の口縁部に隆起線で区画した文様帯をつくり、縄の側面を押捺して飾る大型の豪華な土器が盛行する。地文には斜行縄文、羽状縄文が付される。口縁部に四個の大突起を付すものも多い(写真6)。まれに浅鉢、台付鉢などがある。

写真-6 円筒上層a式土器
(江差町茂尻遺跡)

 円筒上層式土器の分布は、渡島半島から日高、石狩低地帯までであるが、日本海沿岸はやや事情がことなり、すこしずつ地域性をおびながら、積丹半島、石狩、浜益、羽幌、礼文島と北海道北部へひろがっている。沿岸を流れる日本海流と関連するものであろう。
 道央部の石狩低地帯を中心としては、円筒上層式土器に後続する余市式土器が分布する。その古い段階は、当別町伊達山遺跡を標式とする伊達山式土器である。胎土に繊維をわずかに含んだ底の小さい深鉢形土器で、口縁部に外側から内に丸棒のようなもので突いて表面に小さな円形刺突を付し、胴部には数条の粘土帯をめぐらし、地文として羽状縄文が付される(写真7)。

写真-7 余市式土器
(札幌市小野幌遺跡)

 次は入江Ⅲ類、静狩上層式などのグループで、幅のせまい粘土帯をもち、繊維は含まず、円形刺突文も消失する。この時期には、噴火湾から道南部にひろがる。最後の段階は、天祐寺式、レンガ台式とよばれる土器で、粘土帯が少なくなり、列点文、沈線文、磨消縄文があらたに加わる。中期最終末期の段階は、東北地方北部の大木系文化の影響を受けたノダップⅡ式土器が渡島半島から、道央部の一部にのびる。なお、近年、余市式土器は、縄文時代後期に属し、最初、道南部で刺突文のない仲間が生まれ、のちに道部に分布をひろげた段階で円形刺突文のある土器が生まれたとするまったく逆の考え方が、大沼忠春によって提出されている。
 道東北部には、北筒式土器とそれに関連する土器群が分布する。その前段階として、網走市のモコト遺跡から出土したモコト式土器がある。この土器は、胎土に繊維を多く含み、地文は無節もしくは単節の縄文が付される。文様は口縁部に集中し、押し引き文や刺突文、沈線文などが多い。また垂直に粘土帯を貼りつけ、その上にも押し引き文や刺突文を加える。器形は円筒形で平底となる。
 そのあとを受けて、道東部は北筒式土器が広まる。北筒式土器とは、昭和十年に河野広道が名づけた北海道式円筒土器の略称である。口縁部に厚い肥厚帯をもち、円形刺突文を外から付している。トコロ六類(写真8)、トコロ五類などに分けられる。そのほか中期の前半から中葉にかけて、神居式、多寄式、シュブノツナイ式など平底で押型文を特徴とする土器が、上川を中心とする道央から道北地方に分布するが、その文化内容はまだよくわかっていない。

写真-8 北筒式土器 (釧路市東釧路第3遺跡)