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共同墓地の造営

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 縄文時代後期の特筆すべき現象の一つは、共同墓地の造営がさかんにおこなわれたことである。これは、墓地をいとなむことを目的として、地表面を平坦にし、石、溝、土手などで一定の範囲を区画したなかに墓壙群をつくる風習で、環状列石(ストーン・サークル)、環状土籬(周堤墓)、環状溝墓などがある。このように限定された空間を利用した墓地を区画墓とよんでおり、それらは道内に広く、分布している(図5)。

図-5 代表的な環状列石・環状土籬・積石墓群の分布図

 環状列石がはじめて学界に紹介されたのは、明治十九年、小樽市の西にある忍路環状列石を渡瀬庄三郎がサークル・オブ・ストーンとよばれるイギリス、インドなどの遺構の類例とみて「環状石籬(かんじょうせきり)」と訳した。これは、長さ一メートル前後の河原石を籬状(まがきじょう)にならべたところからの用語である。北海道には忍路の環状列石をはじめ、深川市音江環状列石(写真11)、旭川市神居古潭環状列石、余市町西崎山環状列石群、ニセコ町北栄環状列石など一〇カ所前後が知られている。いずれも、環状に並べた列石の下に、円形もしくは楕円形の墓穴をもつ墓跡であり、縄文時代後期中葉の手稲式土器、𩸽澗式土器などの時期の所産である。

写真-11 音江の環状列石(深川市)

 環状土籬は、環状列石の石を土に代えたとみるべき共同墓地で、環状列石の使われなくなったあとを受けて縄文時代後期末に盛行する。環状列石が北海道をはじめ本州各地にみられるのに対して、環状土籬は、今のところ渡島半島を除く道内各地に分布しており、その数は四〇基ほどである。丘陵の先端部や台地縁辺部に直径数メートルから数十メートルにおよぶ巨大な竪穴状の構造物をつくり、掘った土を周囲に盛りあげる。そのため環状の周堤ができることから周堤墓ともよばれる。墓壙は、竪穴の床面を垂直に長円形に掘り込む。墓壙の両端あるいは片側に柱状節理などによって割れた立石をたてる場合もある。壙の底や壙中から副葬品の石棒、石斧、朱塗りの櫛、玉類などとともに人骨が出土する場合もあるが多くは腐蝕して痕跡を残さない。壙底にはベンガラが撒かれている。大正十三年、河野常吉によって調査された千歳市キウスの環状土籬をはじめ、千歳市と苫小牧市の境界をなす美沢川流域に多く発見されている(写真12)。また恵庭市柏木B遺跡の環状土籬なども含めて、石狩低地帯南部に、全道の約九割が集中している。

写真-12 美々4遺跡の環状土籬(千歳市)

 環状土籬は、北海道の縄文文化を特色づける遺構の一つである。