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続縄文文化

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 しかし、津軽海峡をこえた北海道では、当時の稲の品種と技術では、稲作を行うには寒冷すぎ、弥生文化の北進がはばまれたようである。その結果、この地方の住民は、その後も依然として縄文時代と同様な狩猟、漁撈、採集に経済基盤を置いた縄文型の生活伝統が保持されていた。縄文土器の伝統を強く残した土器を使用し、石器や骨角器も同じように使用された。しかも、金属製利器の導入が認められている。このような時代を続縄文時代と呼び、この時代の土器を続縄文式土器と呼ぶことを提唱したのは山内清男であった。
 続縄文時代の文化は、大きく二つに分けることができる。一つは道南部を中心に亀ヶ岡文化の分布圏において、東北の弥生文化と密接な関連のもとに展開した恵山式土器文化(写真16)である。装飾品の管玉(くだたま)やガラスの小玉などは明らかに弥生文化圏から招来されたものであろう。もう一つは、石狩低地帯を中心として、それ以北に分布する「後北式土器文化」である。後北式土器(写真17)とは、「後期北海道式薄手縄文土器」の略称で昭和十年に河野広道が提唱したものである。

写真-16 恵山式土器(甕・札幌市N295遺跡)


写真-17 後北式土器(札幌市S153遺跡、続縄文時代)

 恵山式土器文化後北式土器文化は、土器の形態や文様ばかりでなく、狩猟具の中心となる石鏃においても、前者は有茎、後者は無茎となるなど対照的なちがいをみせるが、太い柄をもつ靴形を呈したナイフなどが、両者ともに共通することは、生業形態の類似性を示すものであろう。
 道南の恵山土器文化、道央・道東の後北式土器文化に対して、道北にはもう一つの続縄文文化「鈴谷式土器文化」がある。これは、戦前、南樺太の鈴谷貝塚で発掘された鈴谷式土器に代表される。四~五世紀ころ、樺太から北海道に南下し、道北地方から日本海沿岸に分布圏を拡大する。あたかも、それに押し出されるかのように、道央部の後北式土器後半の土器が道南に分布をひろげ、さらに海をこえて、青森県から、秋田、岩手、宮城、山形、新潟にまでいたる(図6)。

図-6 鈴谷式土器の南下と後北式土器の進出

 当時の東北地方は、弥生時代の後期から古墳時代の前半にあたり、東北地方や北海道南部で後北C2式、D式とよばれる土器と弥生時代後期の天王山系土器、赤穴式系や古式土師器が共伴する例がしばしばある。当然のことながら土器だけの移動でなく、続縄文人と弥生人の接触もあったであろう。