後期には土器、石器の他に多くの生活用、呪術用の道具とともに装身具などが発達する。
土製品では、T三六一遺跡から破片が発見された土偶を挙げることができる(図14-3)。土偶は、主として人間それも女性を写実的、抽象的に表現することが多いが、イノシシや他の動物を表わすものも見られる。
人を表現した土偶は、破壊されて発見されることが多く、「小児の玩弄物」「神像」「装飾品」「護符」「女神信仰」「呪物」「祭式」など各説があるが、結論が得られていない。
手稲遺跡、白石神社遺跡、T三六一遺跡では、小型の版状土製品に渦巻状や矢羽状の短刻線で文様をつけた「オロシ金状土製品」と呼ばれる遺物が出土している(図18-23)。一部にヒモを通す穴や、ヒモを結ぶのに都合のよい突起があるところから、狩猟の際に石鏃につける毒のトリカブトの根をすりつぶすために用いられたとも、護符とされる土版と同様な目的を有するとかの説が挙げられている。同じような形態のものとして、手稲遺跡から出土した石皿を模した小形の石製品がある。北見地方のアイヌがトリカブトの毒を作る際の道具によく類似しているという。
この他には、手稲遺跡、白石神社遺跡では、石製の垂飾も発見されている(図18-19)。
発寒神社裏の遺跡で、かつて存在した環状列石や、白石区のS三五四遺跡、白石神社遺跡付近で見られた周堤墓と考えられる遺跡の発掘調査を行うことができたなら、次のような多くの遺物を発見することができたであろう。
環状列石の発掘例を見ると、多くからヒスイ管玉、臼玉、丸玉などの飾玉、漆塗りの弓などが出土し、周堤墓からは石棒、土玉、木製漆塗りのクシ、貝製腕輪などが出土している。
特に、後葉の墓から発見される石棒、玉、クシなどは、すべての墓に副葬されるものでなく、特定の地位―たとえば集落の諸事をつかさどる指導者としての役割を果たす呪術者―と考えられる人物に副葬されることが多い。特に石棒は、長さ一~二メートル、直径一〇センチメートルの丸い石の棒を磨き、その一端または両端に繊細な文様の彫刻が行われている。中期の石棒は大型の持ち運び不可能なもので、集落共同の祭式に用いられたと考えられるのに対し、後期のものは持ち運び可能であり、個人に帰属する用具として使用されたものであろう。
近年の小樽市、千歳市の低湿地の発掘では朱・黒漆塗りのクシ、木製弦楽器、火を起こすためのヒキリギネとヒキリ板、石斧の柄、建材と思われる柱、角材、木組み、九木弓、脚付盆などとともに、信仰に関連するトーテム状の巨木などが発見され、当時の土器、石器以外の道具の多様さを示している。
木製品以外には、骨や角を使用したヤス、銛先、針などの骨角製品が発見されている。
人工遺物の他に、当時の人々が食料として活用したクルミ、ドングリ、ヤマブドウ、トチなどの堅果や種子、サケ、ヒラメ、ウグイなどの魚骨、ヒグマ、オオカミ、エゾシカ、イノシシなどの獣骨の発見も相次いでいる。特にイノシシは、北海道に野性種が見られないことから、本州から持ち込まれたものと考えられる。
本州の遺跡では、後期の丸木舟の発見があり、当時の人々は、丸木舟を自由にあやつり本州、北海道の相互を自由に往来していたのであろう。加曽利B様式と呼ばれる土器が、全国的に広がった背景には、人々の自由な移動があったともいえるのである。