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機織技術

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 ところで、紡錘車で糸を紡ぐ作業は多量のしかも均一な糸をつかう機織には不可欠で、擦文時代に紡錘車が一般化することは同時に機織技術そしてアサなどの細い繊維がとれる植物の栽培が普及してきたことを間接的に証拠だてている。しかし、布・紐などの繊維製品の発見例は、豊富町豊富、浦幌町十勝太若月、恵庭市上島松、標茶町伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡などをあげうるのみできわめて少ない。この中で、豊富遺跡の例は、昭和二十七年に札幌西高の生徒によって発掘されたもので、一つの住居跡から毛抜き形太刀・直刀・袋柄鉄斧・大型U字状鉄器・魚突鉤などの鉄器、「あわ・そば・緑豆」の植物遺存体とともに、「織物、編紐、蓆、魚網など」一四種の炭化した植物性繊維がみつかっている。なお、その中にはアイヌのオヒョウやイラクサなどの着物の織りかたに似た例もみられる。
 ところで、石附喜三男は、アイヌの「いざりばた」と弥生文化の機織技術は、若干の相違はありつつも基本的には酷似することからアイヌの機織具が日本から伝えられたであろうとし、その伝来の時期は擦文式土器を発生せしめた土師器と一つの複合体をなして浸透していったと述べている。また、アイヌ民族の代表的な衣服であるアッツシ(Attus)が日本的な衣服であるところから、機織法とともに何らかの衣服の製作法が伝えられ、それがアッツシにみられる衣服の形態だったとも推測している。