オホーツク文化の起源については、最近はシベリア大陸南下説が主流をしめ、具体的には生業と結びつけて黒水靺鞨(こくすいまつかつ)そのものが樺太、北海道に進出したという「黒水靺鞨コロニー説」と、樺太に住んでいた漁撈、狩猟民が大陸文化のみを受容した、あるいは大陸文化だけではなく続縄文文化の一部をとりいれたとする「樺太土着民の異文化受容説」とがある。オホーツク文化の担い手については、現在はウルチ族、ギリヤーク系民族とされ、これは東洋史、日本史でいう文献上の「流鬼」、「粛愼」などが相当すると解釈されている。また、オホーツク文化人の生業は、かつては海獣猟・鯨猟と一面的に考えられていたが、礼文町香深井A遺跡の発掘調査の結果、海獣猟よりも漁撈が主体であること、そしてブタ・イヌの家畜飼養が存在したことが明らかになった。精神生活に関しては、シャーマンが存在し、ブタ・イヌの飼育が行われていたにもかかわらず、クマに対する崇拝が根強くあったといわれる。
オホーツク文化の終末については、一二世紀前半、一三世紀頃、道東においてはほぼ一三世紀頃、道北においては一七世紀頃などの諸説があり、その理由としてはそれぞれ「擦文文化優位説」、「元の侵略説」、「和人進出説」などの考え方が提示されている。この中で、擦文文化優位説については、オホーツク文化の消滅の原因は金属器等を豊富に有し、文化的にも優位であった擦文式文化人との直接的接触および抗争の結果であり、擦文時代に入った、あるいは一般化した道具・技術(紡錘車・機織技術、簡単な農耕)とアイヌのそれとの類似や骨角製の離頭銛とアイヌの「キテ」、古代日本の刀子とアイヌの「マキリ」などの類似から、擦文文化は直接のアイヌ民族の祖先であるとするものである。しかし、これらの事例の内、アイヌのキテはむしろオホーツク文化の銛につながるものであり、またアイヌ文化にあるクマに関するシンボリズムも、擦文文化にはなくやはりオホーツク文化そして恵山文化に認められ、アイヌ文化につながる文化要素は擦文文化よりも、オホーツク文化の方が多いという意見もある。