明治十年前後から軌道にのりはじめた札幌周辺の開拓によって、それまで地中や草むらの奥深くにかくされていた先史時代遺跡が世間の注視をあびるようになった。まだくぼんだままになっている竪穴住居跡が誰によって作られ使用されたかということであった。
明治十九年、渡瀬荘三郎によって、『人類学会報告』第一号に執筆された「札幌近傍ピット其古跡の事」は、その嚆矢であった。このなかでいう「ピット」とは「北海道各地に存する凹形の窪にして往古の穴居跡なりと言伝う」というごとく、竪穴住居跡がまだ完全に埋まり切らないまま五〇~六〇軒の群落をつくって札幌近傍に存在したことを報告したものである。そしてこの竪穴住居跡を渡瀬は「コロポックル」がつくったと主張した。これは、明治二十年代から日本人類学会を舞台として開始されるコロポックル論争の火種となったのである。
江戸時代末期~明治初年以来の日本人種論は、フィリップ・シーボルト、ハインリッヒ・シーボルトのアイヌ説、モースのプレアイヌ説、ジョン・ミルンのアイヌ説、坪井正五郎のコロポックル説、小金井良精のアイヌ説、ベルツの混血説、清野謙次の日本原人説など明治・大正期を通じて、日本考古学史の序幕を飾る論争となっていった。