八世紀に入ると渡島蝦夷は蝦狄・狄・荒狄などと「狄」を以て表記される。これは中国の東夷、北狄の表現に従って、太平洋岸すなわち道奥(みちのく)(道奥は大化改新以後白河以北全域の呼称で、令制では陸奥国と書かれている)の蝦夷を東夷、日本海岸すなわち北陸道の蝦夷を蝦狄として区別することによる。渡島蝦夷は越の国守阿倍臣の北征以来、越の国の、ついで越の国の分割によって生じた出羽国の管轄下にあったことから渡島蝦狄として表記されるようになる。
和銅二年(七〇九)、陸奥、越後両道の蝦夷の反乱には征蝦夷、征狄両将軍が、養老四年(七二〇)には征夷、鎮狄両将軍が任命されている(続日本紀)。