イシカリ改革は、漁場を独占した場所請負人を廃止し、場所経営を箱館奉行が直接的におこなうという、実に画期的なものであった。これは基本的には漁場経営法の変更ではあったが、単にそれのみならず、場所支配全体に対する政治的な課題の解決も意図されていた。たとえば、イシカリ場所内の開発の問題である。これも漁場の膨大な利益をもって、開発費にあてることが意図されていた。また、アイヌの「撫育」の問題もあった。請負体制下では利益のみが先行し、それにともなう弊害を払拭(ふっしょく)できずにいた。このことを解決するには、やはり場所請負制の廃止以外、根本的な解決法がなかったのである。ここに、もう一つの意図が認められる。
この改革は請負人をはじめ、他に与える影響もおおきいので、周到な準備をもって計画が着手されていた。「イシカリ改革」の史料上の初見は、『公務日記』の安政四年四月三十日条である。廻浦途上の村垣範正は、この日イシカリの廻浦を終え、千歳に着いていた。この日に堀利熙より内状が届き、「石狩改革、儀三郎出張之見込其外品々申来ル」とあり、長谷川儀三郎はこの四月二日から「イシカリ兼持」となっており、イシカリ「出張之見込」に対し、堀利熙の意見が具申されてきたのが、この内状であったろう。