ここで長谷川儀三郎の役割が、改めて注目されてくる。『公務日記』には儀三郎が頻出し、村垣範正と儀三郎は相当に親しい間柄でもあったようである。儀三郎は安政三年にスッツに赴任後、一時箱館にもどり、そして十一月十六日に再びスッツに向け出立した。その折、範正より「品々申含」をうけている。この中の一つが、イシカリ場所に関することではないかと推測される。また範正は廻浦にのぼり、十二月二十三日にスッツに到着後、ここで正月をむかえ、四年二月十六日までの長期にわたりスッツに逗留している。異例と思われる程の長期滞在で、これも長谷川儀三郎や、同じくスッツ詰であった下役の岡田錠次郎らに、イシカリ場所の様子を聞きただし、イシカリ改革のプランを練ったとみられる。範正は一月二十八日に、先の岡田錠次郎と面談し、その折に「イソヤ支配人来り、イシカリ之儀為承候事」と、イソヤ支配人よりイシカリのことを聞いている。さらに、二月三日に堀利熙よりの内状で、「石狩大不出来之儀ニ付、風聞書二冊来ル」とあり、堀利熙のサイドで「風聞書」を作成していたことが知られる。二月六日に範正は堀利熙に返事をだし、「石狩風聞書二冊、(儀)三郎調物廻し弐通」などが、確認の小印をしたためて返されている。範正は「石狩風聞書」を読み、また儀三郎のイシカリに関する「調物」を添えて、返却したのであった。このように利熙・範正の両奉行が、両方のサイドでイシカリの調査をおこなっていたのである。範正のサイドに立ったのが長谷川儀三郎で、範正は三月十二日にも儀三郎とオシャマンベで会い、ここでも「石狩之義ニ付、品々申談し置」がなされている。儀三郎が「イシカリ兼持」となったのは、この後の四月二日である。イシカリ改革の計画推進のために、イシカリ兼務となったことが、以上の経過でほぼ了解がつくであろう。