イシカリ詰の首班が水野一郎右衛門、長谷川儀三郎という変則体制も、新たに荒井金助が任命され解消されることになった。金助は、安政四年(一八五七)から文久三年(一八六三)の間、むこう六カ年の長期にわたりイシカリ詰の責任者としての役割をはたした、非常に重要な人物である。
荒井金助は、「由緒書」によると、文化六年(一八〇九)生まれで、文政十二年(一八二九)に父竜蔵の跡をつぎ、御普請役に出仕した。その後、京都御取締方・小普請方などをつとめ、安政四年三月十六日に箱館奉行支配調役並となる。『公務日記』によれば、金助は六月十四日に箱館に着き、さっそくイシカリ詰を申し渡されている。これにより、長谷川儀三郎の兼勤もとかれるようになる。金助はここで長旅の疲れをいやした後、六月二十七日に村垣範正にイシカリ出立の挨拶をし、範正から水豹(アザラシ)の皮を贈られている。範正からは、当然、イシカリ改革のことも種々、言い含められていたことであろう。イシカリに向かったのは翌二十八日のことで、到着したのは『札幌沿革史』(明治三十年刊)の編纂史料として、永田方正がまとめた『荒井金助事蹟材料』には八月とある。しかし、今回は急ぐ旅であり、箱館からイシカリへは一〇日もあれば充分なので、金助は七月初旬にはイシカリ入りしたとみられる。『公務日記』八月二日条に、「金助引継済、儀三郎帰場」とあるので、七月下旬前には引継が終了し、長谷川儀三郎もスッツに戻ったようである。ちなみに、イシカリから箱館への用状は、一〇日程の日数を要した。このことを勘案すると、先の引継は七月二十日前後のことになろう。