イシカリ改革の発表は、先の「評議済」を得て、この年(安政五年)四月十三日に「書付」の形式で申渡しがおこなわれた。これが、「西地石狩場所改革仕候儀申上候書付」(『新札幌市史』第六巻、以下『市史』と略記、四八頁)である。
この「書付」によると、まずはじめにイシカリ場所請負人の村山(阿部屋)伝治郎は、「近来身上向不手廻」で、「場所世話方不行届」であると述べている。村山家は文政期(一八一八─二九)には、一時経営不振におちいるが、この安政期には経営が順調化しており、「近来身上向不手廻」というのは、事実に即してはいない。むしろ、「場所世話方不行届」が改革の主要因で、このことに関して「書付」はつぎのように続けている。すなわち村山家は、「土人撫育」に関し「心を用ひ」ず、「利欲ニ走り種々私曲之儀」が多く、「悪習一洗」の様子もみえない。このために、改革が必要であると「書付」は説いている。さらに改革後は、請負人を廃止して出稼となし、他の出稼も自由に認め、運上金のかわりに漁獲高の一割五分を上納金となし、アイヌの「撫育」も充分におこなうことを述べている。