幕吏の記録には鈴木尚太郎の『休明重記』がある。彼はイシカリ辺について簡略な記事しか書いていないが、カラフトの分は特に『唐太日記』として別冊にし、これがのちに刊行され広く読まれることになる。『休明重記』は前述のイシカリ通過第一報とごく似ているから、堀村垣連署の速報は鈴木の手になるものかも知れない。名は重尚、茶渓と号し、旅の翌年箱館奉行支配調役として箱館に在勤する人である。
鈴木の従者としてメンバーに加わった山県璣は、鈴木同様『哈喇咈吐略誌』を残すが、ほかに『北陲日誌』と名付けた全行程の記録も書いた。その五月二十日の条に「伊志加利川而宿、川広濶三四百丈、本州巨浸也、水源千許里、往往有聚落云、至此則東北土地平曠、草樹際天、決眥欲求一螺鬟不可得」と、イシカリの様子を書いている。
山県は文政十二年(一八二九)長門国萩の生まれ、江戸に出て安積艮斎の塾に入り、後述の平山省斎と同門になる。蝦夷地から帰ると長崎に遊学、のち藩の機務に参与し、下関攘夷戦、長州再征などで常に重要な役割をはたし、明治になって新政権のもとで司法大輔、元老院議官等をつとめ子爵になった。萩藩家老宍戸備前の末家となり一家を創立してからは宍戸氏を名乗った。
『北陲日誌』を書き上げると、師艮斎の序文を請い、さらに幕臣で納戸頭をつとめたあと野にあって『簡堂海防策』を草し攘夷論を唱えた羽倉用九に校閲を願い、安政二年十月評を得たが、その中にイシカリをして「此地宜置都督府」とあるのが注目される。安政二年すでに一部識者の間に、北の都督府を置くならばイシカリが適地であるという意見があったことを知る。
鈴木、山県はイシカリをあとにして六月十三日クシュンコタンに渡り、鈴木は東海岸をマアヌイ、トツソまで北上、西海岸クシュンナイに出て七月八日シラヌシにもどる、一方山県は本隊と別れて六月二十三日ソウヤへ向け出帆する。後述の猪俣英次郎らイシカリ再検分班の船に同乗したのだろう。しかし暴風にあってリシリ島に落船、二十九日やっとソウヤに着き、ここで閏七月三日本隊と合流、オホーツク海岸から太平洋岸を回って箱館に帰り、そのあと福山城検分にも加わった。
この間、山県のユウフツでの記事が注目される。すなわち、ここにはいくつかの川が流れており、それを船行すること四日で西部のイシカリに達する。この交通路が南北の山脈を中断する形勢で、「苟墾開之、百万之封可立致。恨建議無其人耳」と訴える。これを絵図師として調査団に加わった横井所右衛門(豊山)の意見と合わせ考えると興味深い。横井は『探蝦録』という紀行をのこすが、フルビラからマシケへ船で直行、イシカリに下船しなかったため、イシカリ辺にかかわる見聞は書いていない。しかし調査後『北門私議』を草し、国防のために積極的な開発政策をとるべきだと主張、「内地より人を移し土地を開墾すること、是第一の急務なり」といい、豆、蕎麦、大根の類はもとより「白川と呼ふ早稲なれば必らず登熟疑ひ無かるべし」と付言した。なお横井と同行程の板倉庄次郎に『板倉家日記』があるが、やはりイシカリ辺の知見がみられないのは残念である。