武四郎は文政元年(一八一八)二月六日に伊勢国一志郡雲津の川南須川村(現三重県一志郡三雲町小野江)にて、郷士松浦時春の三男として生まれた。名は弘、字は子重、幼名竹四郎、後に武四郎と称し、柳を愛したことから柳田また柳湖、その外に雲津、多気志楼、北海、憂北生、馬角斎などと号した。少年時代に津藩の儒者平松楽斎の塾に学び、天保四年(一八三三)に一六歳で家郷を出て、以降関東、山陽、四国、北陸、東山、東海、山陰、九州を遊歴する。天保九年二一歳の時長崎での病を機に入道し、名を文桂と改め、長崎、平戸の禅寺を住持していた。
たまたま長崎の乙名津川文作より、蝦夷地が赤蝦夷(ロシア人)によって侵攻されるおそれあり、との風説を聞き、ここに北辺の急務に従事しようと決意して、天保十四年郷里に帰り、翌弘化元年伊勢神宮に詣でて還俗し、単身蝦夷地に向かった。この年は渡海できず、翌年四月鰺ヶ沢より目指す蝦夷地への第一歩として、江差に足跡を印したのである。二八歳の時である。