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北溟の旅

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 老中内藤紀伊守信親は、越後国村上城主(新潟県)、五万石の譜代大名である。この地はかつて左遷大名の城地とささやかれたが、内藤氏が入封してのち定着をみ、父信敦は京都所司代を勤め、信親もまた大坂城代、京都所司代を歴任して、嘉永四年(一八五一)から文久二年(一八六二)まで老中の職にあった。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わるが、藩論まとまらず多くの犠牲者を出すにいたった。
 村上藩の調査は鳥居存九郎、水谷栄之丞、窪田潜竜ほか従者二名により、長岡藩一行とほぼ同日程で行われた。鳥居は養父の与一左衛門を襲名、淇松、和達ともいう。天保四年(一八三三)生まれだから、イシカリ来訪は二四歳の若い時のこと。二三〇石を知行し町奉行を歴任するが、戊辰戦争で抗戦派とされ永禁錮に処せられ、明治四年赦されて帰藩、同十年四五歳で没した。
 水谷は水谷雪窩の子、精、進卿、孫平治、雪斎ともいう。禄高一〇〇石で三条代官役を勤め、明治になって初代村上町学校長についた。窪田は今村全長の子、藩医だったというが、詳しい経歴は明らかでない。従者名の手がかりも今のところ得られない。一行の手になる「復命書、日記、地図等ありしが、維新戦乱の際之を失ひたり」(北海道史人名字彙)といわれる。『蝦夷紀行』(一名北溟紀行)はこの日記の一部なのだろうか。おそらく鳥居の著作と思われる。
 それによると、一行は安政四年(一八五七)三月二十二日蝦夷地調査の命を受け、四月十三日城下を出発、久保田、青森を経て五月八日箱館に渡った。イシカリへ向けて出発するのは五月十三日、長岡藩一行と同じく福山江差を回り閏五月二日オタルナイ泊、翌三日イシカリに到着して一泊した。四日イシカリをあとにしアツタへ向かい、十四日カラフトに渡ってまたソウヤに戻るのは七月三日、その後オホーツク海岸から太平洋岸を通って八月二十日箱館着、ここから長岡藩一行と別行程をとり、二十九日青森に渡り江戸には向かわず村上へ直行、九月十三日郷里に帰着したのである。