一方、欧米技術との接触に刺激され、イシカリの地下資源に対する関心がたかまった。安政四年松浦武四郎は空知川流域のナエ、ペンケケフシナイ、モシリノシケオマナイ、ホロナイ(いずれも現赤平市)に石炭が豊富に産出すると報じ、荒井金助は空知地方で石炭を見出し木標を建てたという。また、アツタ周辺の石油に注目した人も少なくない。これが海底から湧出すると考える人が多かったらしく、荒井は下僚を派遣して油脈の山中にあるのを発見したという(北海道史 第一)。
このほか、アツタの貝化石、ユウバリの白土(雲母性)、同川筋イワナイの硫黄、そして金銀山の存否などに関心がそそがれたが、採掘活用の具体化にはいたらなかった。その中で、佐倉藩士窪田官兵衛が、モウライ川辺の〝カド石〟を水晶質のものとみて、ガラス製造の原料として役立てようと考えたのが注目される。