幕府の第二次直轄をうけ、蝦夷地の開発と経営のために、新道の切開と整備が計画されてきた。これまでは主に海上交通に依存してきたのであったが、悪天候や冬季にも耐えうる陸上交通への転換がはかられたのである。
その最初のプランが提示されたのは、安政二年(一八五四)四月十一日で、箱館奉行の堀利熙から老中へ提出された、「蝦夷地え国号御撰定幷駅路御開見込之趣申上候書付」(幕末外国関係文書 一〇)であった。それによると、箱館──鷲ノ木──オシャマンベ──ユウフツ──チトセ川──イシカリ川──テシオ川──エサシ──アバシリをたどる、「本海道(中央大道)」の設定を具申している。また、西海岸にもスッツよりソウヤに至る新道の開削も述べている。以後、このプランにそい蝦夷地における新道開削がすすめられるようになる。