ビューア該当ページ

ハッサム道

814 ~ 815 / 1039ページ
 サッポロ越新道がいつどのように計画され、また工事に着手されたのか不明な点が多いが、新道はまずハッサム在住地へいたるハッサム道として、最初に開かれたようである。
 ハッサム在住の第一陣は、安政四年二月二十八日頃にイシカリ入りし、雪どけを待って間もなくハッサムに入植したとみられる。これにあわせ、銭箱からハッサムへの道路が開かれるのである。この年閏五月二十四日に、堀利熙の奉行廻浦に随行してハッサムを検分した玉虫左太夫の『入北記』によると、ハッサム山道が「此度新タニ開キ」とあり、この間もない時期に開削されたことがわかる。『入北記』にはこの道の様子も記しているが、ポシポキ(ホシオキ)川は丸木橋で馬の通行もかなわず、道幅も狭く一人の通行しかできず、樹々や熊笹・砥草(とくさ)の中を歩く、苅り分け道であった。フシコベツブトと呼ばれたハッサム在住地へのハッサム道は、阿部屋に命じて開削されたとみられる。六月以降に着手されたサッポロ越新道は、これをもとに着工されたであろう。
 堀利熙の一行は、この後六月一日までイシカリに滞在し、二日にアツタへ向け出発することになるが、一日に重要な仰せ渡しが請負人の阿部屋(村山家)に対してなされた。『入北記』には、詰合役人への賄賂(わいろ)、及び「土人取扱不宜次第」が「厳重御沙汰」とされている。また『公務日記』によると、六月一日付で堀から箱館の村垣範正への御用状には、①発寒部(ハッサム)在住地所割渡し、②千歳川新道取極(き)め、③ユウフツのイシカリ漁場願の熟談、以上三件が報告されている。このうち②は、サッポロ越新道のことで、新道開削が阿部屋に命じられたものであろう。