そこで、開拓の主体である移住農民に対して、その入植と定住をはかるために大友はどのような扶助をいかほど支給しようと考えていたのであろうか。それを彼が慶応二年二月に提示した『石狩御手作場新軒取建入用大略取調』(大友文書)によって見てみたい。なお以下の数量は家族四人の一戸分として見積っている。
第一に食糧として、扶助米は家族一人に付一日当たり、入植の初年は六合、二年目は四合、三年目は三合、四年目は二合ずつとし、総計一戸分五四俵としている。また味噌は一人一日二五匁四分余で三樽(一樽一二貫目入)を初年に支給、塩は同じく初年に五俵を計上している。
第二に家財として、膳椀(四人分)、鍋(二ツ―四升焚・二升焚各一ツ)、手桶(一組)、柄杓(一本)、湯釜(一ツ―四升入)、明き樽(八ツ―水桶・肥入に使用)、足洗盥(一ツ)、摺鉢(一ツ)、四幅布団(四枚)、箕(二枚)、米とぎ桶(一ツ)、筵(二束)、縄(一丸)、笊(二枚)、以上の十四品目。
第三に農具として、鋤(一挺)、窓切鍬(二挺)、平鍬(二挺)、山刀(一挺)、鎌(三枚―草刈二枚・柴刈一枚)、斧(一挺)、臼杵(一組)、手扱(てこき)(一挺)、農馬(一頭)、以上九品目。
第四にその他として、家作(一軒―梁間三間・桁間六間の本家作のみで馬屋、便所は自弁)、開墾手当(一反歩に付、田五貫一〇〇文割り、畑四貫八五〇文割り、但しその地により値段の高下有り)、農夫移転料(金一両)。
以上のような諸物品・金銭の支給を大友は計画していた。これらをすべて金額をもって総計すると、農民一戸(家族四人として)の移住に要する費用の概算は、金一七九両三分永二四五文八分と見積っている。箱館奉行所において決定をみているイシカリ開拓の年間予算総額は三〇〇〇両であるから、これをすべて農民移住扶助にあてたとしても、上記の概算に従えば農民一六戸分に過ぎない。しかも大友の御手作場全体の経営計画では、この農民入植に先立っての道普請、用悪水路掘削、橋掛等の御手作場造成の事業も当然組み入れられていたのである(なお造成事業費の概算は、この取調書においては、現地状況が不分明につき実地検分の上に改めて見積るとして算出されていない)。
ところで右の大友の取調書に関して、箱館奉行所は疑問を提示してその回答を求めているが、それに対する大友の説明が「下札」として添えられている。奉行所の疑問とは、かつての箱館近在御手作場における新妻、佐々木、大友(新六)らの仕法見込では、農民扶助米を一人一日五合ずつを三カ年間の支給としていたが、それを大友のイシカリ御手作場においては、上記のように一人一日初年六合、二年四合、三年三合、四年二合と、四カ年に繰り延べた理由は何故か、というものであった。
これに対する大友の考えは以下のとおりである。入植の初年は秋の収穫まで自己生産物による補食は不可能であり、また他方、従来の経験によると農民の一日定食五合は絶対に不足であって、したがってそれを補うため農民は必然的に出稼等に依存せざるをえず、ついに開墾の意欲を喪失してしまうであろう。それゆえに二年目の内の一合を先取りし、老幼男女平均して一日一人当たり必要な六合を初年に支給することとした。二年目は、初年に開発した田五反歩、畑五反歩より、おおよその見込みで一反歩につき田より米一俵、畑より粟五俵、大豆小豆二俵割りの収穫があるので、これらの補食により扶持米は四合で充足され、なお残部をもって塩噌・衣類の購入、家財・農具の破損手入れもなしうる。三年目は、二年目の開発田畑各二反五畝が加わり、加えて初年度開発田畑は熟作となって収量は増加するであろうから、扶助米をなお減じ、残部はまた生活・生産の資に充当することが可能となろう。四年目は、三年目の開発田畑各二反五畝がさらに加わり、初年より合算すると田一町歩、畑一町歩の計二町歩となる。この一戸二町歩の田畑地積をもって農業経営が展開しうるまでの四カ年間、農民の開墾状況や実態に即して支給する方が、同量の扶助米を支給するにしても、農民定着のためにはより効果的であろう、という独自の仕法を案出していたのである。