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御手作場経営の将来計画

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 農民の入植と定住に関する仕法は以上のようなものであったが、このようにして開発される御手作場の将来の姿を、大友はどのように想定していたのであろうか。それをうかがい知る文書として、慶応二年六月に提出した『蝦夷地石狩領荒地開発田畑御収納方三十ケ年組立書上帳』(大友文書)がある。これは慶応三年を初年度として、それより先三〇カ年間の農民入植と田畑開発、さらにそれよりの貢租収納高とその運用結果を、毎年ごとに記帳したものである。もっともこれをまとめるに当たって大友は、この三〇カ年計画は「中勘組立」ではあるが、しかしいまだ着業しておらず、まさに「空論同様」のものだと断っている。
 この計画書によると、まず移住農民については、慶応三年の初年は農民一〇戸が入植、翌慶応四年の二年目から三〇年目の慶応三十二年までは毎年一五戸ずつの農民を入植させ、したがってこの慶応三十二年で合計イシカリ御手作場農民は四四五戸、と計画している。
 次に開発田畑については、農民一戸の開発占有する地積を田一町歩、畑一町歩の計二町歩として、三〇年後の慶応三十二年には、農民四四五戸によって田・畑それぞれ四四五町歩、合計八九〇町歩の開発を想定している。
 ついでこの開発田畑から貢租を収納するわけであるが、その収納は開発着業した年から一〇年間を据え置き、一一年目より徴収を開始する。その徴収額は、一反歩に付き田は米一斗納め、畑は大豆四升四合四勺四才としている。さきにふれたように、大友は開発初年においても反当たり田では米一俵、畑では大豆小豆二俵の収穫があると見込んでいるので、いちおうこれを基礎としてみると、田租は二五パーセント、畑五・六パーセントの率となる。
 さて慶応三年に最初に入植した農民一〇戸が開墾する田・畑各一〇町歩から、一〇年を経過した慶応十三年に初めて貢租を収納することになるが、その額は田方が米二五俵で金五〇両(一俵は金二両割)、畑方が金一六両永六六六文(一升に付永三七文七分割)となり、収納初年度の慶応十三年は合計金六六両永六六六文の歳入となるが、大友の仕法においては、この歳入全額を年利一割とする農民対象の貸付金の元金として運用するとしている。したがって収納二年目の翌慶応十四年の歳入は、慶応三年入植の一〇戸と翌四年入植の十五戸の農民が開墾した田・畑各二五町歩に対する貢租として金一六六両永六五〇文、それに加えて昨年度歳入額を貸し付けた元利金七三両永三三一文とで、計金二三九両永九八一文となる。このような方法を年々繰り返して、貢租収納開始から三〇年後の慶応四十二年には、四四五戸の農民が開墾した田・畑各四四五町歩を対象とする貢租収納額は金二九六六両永三七〇文、それに前年貸付の元利金一四万二四七九両永四三三文八分を加えて、合計金一四万五四四五両永八〇三文八分の歳入額になる、と算出している。
 このような仕法は、さきにもふれたように大友自身あくまで空論同様と断っているが、貸付により莫大な利金をもたらす結果となる。しかし大友においてはこのような利益の確保を主眼としたものではなかった。この仕法の「発端御趣意之根元ハ、貧を恵ミ善賞し、艱難ニ陥り居候窮民を保する之不軽大道ニ基」づいているのであって、このことにより農民の困窮難渋は免れて開墾は永続し、御仁沢をわきまえて年貢も遅滞なく納付し、そこからひいては幕府の「御土台何千万両無限相生」ずる結果となるのである、と考えているのであった。