大友の御手作場経営方法において、人と物との流通をうながし、かつ農業適地を造成するため、道路の開削、用排水路の掘削、橋梁の架設、家屋の建築等の事業を起こすことが「開拓之本源」であると説き、事実御手作場の地所を選定するや、直ちにそれらの工事に着手していたことは先にふれた。そこで実際に遂行した、いわば御手作場の基盤整備としての諸事業の内容について、慶応二・三・四(明治元)年の各年ごとの『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(大友文書)によって展望してみたい。
第一に「堀割」と称せられている用排水路は、慶応二年において延五四〇一間一尺が完成したことになっている。しかしそのうちのほぼ四割に当たる二一八五間は「古堀用ひ」とあって、自然の旧河川等を用水路として利用したものと考えられ、またその工事費は計上されていない。
右により慶応二年に「新堀」として新規に掘削された用排水路は三二一六間一尺である。この水路の規模は、水路幅によって分類すると五種あり、それは①五間幅、②上口七尺五寸・下口六尺幅、③上口七尺・下口六尺幅、④上口四尺・下口三尺幅、⑤上口三尺・下口一尺五寸幅、である。そしてそれらの水路に流水させるわけであるから、当然それぞれの水路には深浅の差をつけて掘削されている。いま水路の幅別、深さ別の水路延長を示すと以下のとおりである。
①〈五間幅水路〉深さ三尺―三五間、深さ四尺五寸―三七間、小計七二間。
②〈上口七尺五寸・下口六尺幅水路〉深さ五尺五寸(小石場)―五〇間、深さ六尺―三一六間、深さ六尺五寸(大石場)―一〇三間、深さ六尺七寸(大石場)―一一〇間、小計五七九間。
③〈上口七尺・下口六尺幅水路〉深さ二尺―一五八間、深さ二尺五寸(一部片揚)―一五〇七間三尺、深さ二尺八寸(片揚)―一九六間、深さ三尺―四七間四尺、深さ三尺一寸―一〇〇間、深さ三尺七寸―四二間、深さ四尺―六五間、小計二一一六間一尺
④〈上口四尺・下口三尺六寸幅水路〉深さ三尺六寸―四七間三尺のみ。
⑤〈上口三尺・下口一尺五寸幅水路〉深さ一尺―二〇〇間三尺、深さ一尺五寸―二〇一間、小計四〇一間三尺。
以上慶応二年施行の用排水路の総延長は三二一六間一尺(約五・八四七キロメートル)であった。その費用をみると、当然ながら水路の規模によって区々であり、一間当たり、最も費用を要したのは大石場の上口七尺五寸幅の深さ六尺七寸水路で銭五貫九五〇文、逆に最も少ないのは上口三尺幅の深さ一尺水路で銭一三三文であるが、平均すると一間当たり銭一貫二四三文となり、慶応二年の用排水路総工事費は銭三九九六貫八五四文であった。
翌慶応三年にも水路の掘削は継続されており、その内訳は、
①〈御手作場よりシノロ村上までの用水路として〉七尺幅で深さ二尺―三四〇間、深さ二尺五寸―一一七五間、深さ三尺―一二〇〇間、深さ三尺五寸―一一五六間、計三八七一間(約七・〇三八キロメートル)、その費用銭二七二一貫〇八九文(一間当たり約七〇三文)。
②〈悪水抜きとして〉七尺幅の深さ二尺五寸水路―四一間。五尺五寸幅の深さ三尺水路―三〇間。幅四尺の水路で、深さ一尺五寸―六〇間、深さ二尺五寸―四〇間、深さ三尺五寸―三〇間、深さ五尺―四〇間の計一七〇間、悪水抜き水路の総計は二四一間となり、その費用は銭九五貫八七一文(一間当たり約三九八文)である。
③〈用水小堀として〉三尺幅の深さ一尺五寸の水路が五七間三尺、その費用銭一一貫五〇〇文(一間当たり二〇〇文)。
以上慶応三年施行の用排水路は総延長で四一六九間三尺(約七・五八一キロメートル)、総費用銭二八二八貫四六〇文(一間当たり六七八文)であった。
右に掲げた慶応二・三の両年をもって用排水路工事はいちおう終わっているが、これらを合算してみると、イシカリ御手作場の用排水路の総延長は、「新堀」として新規に掘削された分が七三八五間四尺(約一三・四二八キロメートル)であり、「古堀利用」分の二一八五間を加えると九五七〇間四尺(約一七・四〇一キロメートル)となり、そしてその総掘削工事費は銭六八二五貫三一四文であった。