慶応四年の御手作場新規農夫は、一月に南部五戸出身の幸吉の家族五人(十一月に男子出生して六人となる)、六月にはすでに自立開墾をもって入植していた与惣次(出身地不明)の家族四人を御手作場農夫として組み入れ、七月にも同じくすでにサッポロ村に永住していた茂八(出身地不明)の家族三人をも組み入れた。また七月には長八の二男馬吉が妻を迎え家族二人をもって別家して一戸をなした。
ここに慶応四年の加入した新規農民の戸口は、四戸、一五人(男七・女八)である。
以上、慶応二・三・四年の移住農民を累計してみると、慶応二年の入植者中、さらに家族に遅れて入植した者一人、出生一人の二人が増加し、また慶応三年の入植者中、家族より遅れて入植した者一人と出生三人の計四人が加増し、別家のため一人が減じたのを差し引きして、結局、イシカリ御手作場への移住ないしは編入農家は、入植後一戸の離村もみることなく、慶応四年(明治元年)の十二月末をもって、総戸数二三戸、九五人(うち男五三人・女四二人)を数えるにいたった。なお二三戸の出身地をみると、津軽七、南部七、越後四、秋田一、庄内一、在地三である。