大友は御手作場の経営計画の中で、農民に対して手厚い保護を加えるべきことを力説し、また詳細に扶助すべき物品をあげていたことは前述した。その計画は現実においても、多少の支給の品目や数量の減少は見られるが、ほぼ貫徹されていたといえる。いまこれら扶助諸物品の支給状況を、慶応二・三・四年の各年ごとの『石狩御手作場農夫御扶助米塩噌諸道具渡方書上帳』(大友文書)ならびに『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(同)によって跡付けてみたい。
まず第一に基本的な扶助米については、人別帳に基づく家族構成数ならびに入植者年月日に対応して、当初の大友の計画の通り、一人一日(老幼男女の差なく)、初年六合、二年目四合、三年目三合(計画では次の四年目には二合の支給であるが、幕府の倒壊により中断)の割で支給している。ただ家族数といっても、人別帳に記載されていながら未着の者や、当年出生児は支給されていない。また出生児や嫁入りなどの中には一年経過後も支給されていない者もまま見られる。この扶助米の支給は、その他の支給物品においても同様であるが、原則的に新規の招募農民に限定されており、したがって御手作場近辺ですでに農夫または自力開墾等で農業を営み、その後御手作場に編入された農民(荷三郎、与惣次・茂八)には支給されていない。ただ特例として与惣次に対しては、貯え乏しく飯米困難、かつその自力開墾を奇特として、慶応四年上期に米四斗一升七合を支給している。
以上、慶応二年八月朔日より同四年十二月晦日までの間に、扶助米として御手作場農民に支給したのは(慶応二年の大友への二人扶持分、慶応四年に手付の貞助への扶持分ならびに鼠喰い等による減石分を含み)総量で二六八石六斗三升三合五勺であった。またその額は、一俵単価、慶応二年銭一七貫四〇〇文、同三年二七貫文、同四年二三貫八七五文と一部で一六貫一五〇文をもって購入し、総額銭一万六四四四貫〇〇六文におよんだ。