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コトニ開発場

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 第七章で記述したように、安政四年にケネシベツ川(コトニ川支流、現琴似川)の川岸に入居していた早山清太郎とその開拓地は、おそらく安政五年にイシカリ在住(ホシオキ)中川金之助中嶋彦左衛門の「開発場」として、その管轄下に入った。すでに安政四年から畑だけではなく造田に着手していたといわれるが、安政五年四月に巡回した村垣箱館奉行は、この地を小鳥川と記し「農夫有リ、田地も試ニ仕かけ、苗代生育よし……此辺地味よし」(村垣淡路守範正公務日記 幕末外国関係文書付録)と記している。
 この開発場の位置は、のちの〝十二軒〟とされているが、その中のどこなのか正確にはわからない。しかし移住後ただちに水田を作れる場所と考えると、北一条付近はまだ琴似川は急流であって、無理のように思われる。反面、道道宮の沢北一条線(旧国道五号線)付近では、すでに低地であり、水害等の危険が多くなる。地勢上のみから考えれば、道道宮の沢北一条線より一段上がった平坦な地帯、すなわち現宮の森小学校よりわずか下流の川岸が、可能性が多いように思われる。なお、早山については略歴も含めて次節「シノロ村」で述べる。