水稲作については前述したが、畑作でも、前記のように種子を御手作場に売り渡している。その品目は小豆、大豆、稗、粟、蕎麦、大・小麦となっており、籾種、野菜物種、大根種は道南の大野村からの取り寄せである。しかしこれだけの種子を提供できるということは、それだけ農業が成熟していたことを示しているといえよう。ハッサム村に比較すれば、イシカリに近く、慶応二年からは、フシコサッポロ川を通じて御手作場とつながっているという有利な面もあろう。さらに荒井一家が、明治に至るまで、種々の関係を持ちつづけていたであろう点も見逃せない。
また庄内藩士山田民弥の『恵曾谷日誌』には、明治三年二月十四日の項に「シノロ人家二十八軒」と記され、さらに清太郎の兄喜平次の話として、耕地は畑が三四~三五反、田が六反とされている。これによると、一戸あたり平均耕地面積は二反をかなり下廻り、清太郎、兼松などを除く大半の農家が、自立からほど遠い状況にあることが推測できる。さらにハッサム村と同じく明治四年の人別調では、「在来」農家が二八戸となっていて、この間の転出はないとみられる。この戸主名および家族数( )内を記すと、次のとおりである。
太田長吉(三)、森山兼松(六)、小川幸吉(三)、荒田定七(一)、開田太助(三)、松田藤八(一)、早山清太郎(三)、岡部善吉(二)、高木松右衛門(四)、最上金蔵(六)、工藤喜三郎(四)、高梨忠治(三)、佐々木七之丞(四)、沢田福松(六)、渋田音吉(四)、渋田弥兵衛(六―うち増毛郡寄留二)、松代喜兵衛(七)、松山佐吉(四)、斉藤佐兵衛(七)、金子善助(二)、佐藤友治(一)、辻村忠吉(四)、種村要蔵(二)、伊勢利八(二)、岩船与助(二)、竹田藤五郎(二)、若山仁三郎(三)、木川又蔵(一)。
このほか、万延元年八月に、豊吉および長八の二人が、「当御場所御改革ニ付、御田地等御開之趣承リ候ニ付……小鳥川下字シノロ川辺ニおいて」(石狩御用留七 五十嵐勝右衛門文書)入地を願い出ているが、これについての詳細は不明である。