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農民の住まい

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 右の建物群を中心としてほぼ東西に農家が点在していた。その農民の家作は本来官が建てて入植農民に給付することになっていた。計画によると、前章において図でも示した通り、桁間六間・梁間三間の一八坪で、六坪の土間、六坪の荒鉈掛け板敷間、四坪と二坪の鉈掛けなしの板敷間よりなり、土間に入口があり、六坪・四坪の板敷間にサクリをもって隔子窓がついていた。しかしこの家作は慶応三年に経費金三〇両余をもって一軒のみしか建てられず、これは松太郎に給付された。他の農民は入植するや即刻、自ら伐木し、茅や笹を刈り集め、もって仮小屋を建てて住まいとしたものと思われる。これら小屋に関する経費は御手作場の請払帳には一切認められない。慶応四年に長蔵が給付予定の本家作のかわりに「火盗除之為メ」板倉を普請したい旨出願したのに対し、大友は本家作分の金三〇両を下付しているが、農民たちの建設した仮小屋は、まさに火災と盗難の危険にさらされている粗末な小屋であったことが推察される。大友も財政上本家作の建築はままならず、かといって仮住まいの窮状を見かねたのか、慶応四年の上期に長蔵を除いた一八戸に、本家作用の敷板のうち八分板六坪ずつを給付して急場をしのいでいる。ただここで松太郎は、上述したように慶応三年に「本家作壱軒」を確かに支給されているのであるが(慶応三年 石狩御手作場農夫御扶持米塩噌諸道具渡方書上帳 大友文書)、他方でこの敷板六坪の給付もうけている(慶応四年六月 石狩御手作場開墾御用金請払書上下書 大友文書)。これは、慶応四年の「当二月火災ニ付格別難渋致し候ニ付、多分借財相嵩申候間、秋より三ケ年賦ニ上納為致候積」として金一九両三分二朱を松太郎に貸付けているのを見ると(前出)、松太郎が給付されたただ一軒の農民家作は焼失したものと考えられる。