慶応二年、大友亀太郎を蝦夷地開墾掛として、サッポロに御手作場(幕府の直営農場)の事業が開始された。これはハッサムなどを含め、従来道内に相当数あった小規模なものではなく、年間三〇〇〇両の経費を投じて、計画的かつ大規模な拓地殖民を行おうとするものであった(第八章参照)。
また、その際掘削された堀(大友堀―創成川の原型)は、従来一般にいわれているような給水用としてではなく、用悪水路の目的であったことは確実である(東区今昔 大友堀 札幌村歴史研究会ほか編)。
したがって、この御手作場の計画が、明治維新の政変によって中断されず、そのまま続行された場合、堀の両側が比較的早い時期に農地化されたであろうことは、容易に想像できよう。すなわち、のちに札幌本府の建設された地は、幕府にとって、農村建設予定の地と規定されていたことになる。
以上からみれば、幕府・箱館奉行の方針は、『岡本氏自伝』中の荒井の意見に若干の疑念は残すものの、イシカリを蝦夷地日本海岸行政の中心とし、サッポロなどその後背地を開拓して殖民し、食料のできるだけの自給など産業の拡大と、人口増殖による防衛上の効果を期待したもので、サッポロに都市を建設する意志はまったくなかったといえよう。