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蝦夷地開拓意見書草稿

1012 ~ 1014 / 1039ページ
 このような事情の中で、十文字の開拓意見が草されたが、おそらく自筆と思われるものが、宮城県大石家に残されていた。表題は付されていない。

写真-1 十文字龍助の蝦夷地開拓意見書草稿

 この『草稿』は、もちろん蝦夷地開拓に関する意見であって、本府建設論ではない。しかし中に建府論とでもいうべきものを含んでいるので、それを中心に、この意見を紹介したい。
 ここで十文字は、北方を主とした国際情勢と関連して蝦夷地開拓の必要性を主張し、「現ニ開拓ノ開拓タル験ヲ見ルヘキモノ何ソヤ。無他、人ヲ移シテ田畝ノ業ヲ興スニアリ。因テ思フニ、防禦モ聊不可緩、是宜ク土着ノ法ヲ行フヘシ」とし、そのため数十「大段」を立て、その中に「小段」をおくとしている。大区分と小区分という意味であろう。その上で建府論ともいうべきものを次のように記している。
蝦夷地石狩為中央土地形勢ノ如ハ世ノ所知也、復不贅言。宜ク此地ニ一城ヲ築キ、守衛ノ士員ヲ土着トシ、地ヲ其近傍ニ割与シ、其臣僕ヲシテ墾闢セシメ、又農民ノ謹厚質実ナル者ヲ移シテ里正ト為シ、衆農移住ノ先唱タラシムヘシ。一城衛士ノ住宅モ既ニ不少ニシテ、其臣僕ノ戸数ヲ併セハ人煙鬱トシテ興リナン。加ルニ移住ノ農竃ヲ以テスルヲヤ、是中央之一大段也。

 すなわちイシカリの地は蝦夷地の中心であるからここに城を築き、武士を配置し、その「臣僕」に開拓させ、また模範的な農民を移して「里正」(村長・庄屋)とし、農民移住の先駆とする、というものである。これによれば、武士・臣僕・里正・一般農民という系列で村落を形成する体制であり、また「守衛の士員」とあるから、城は当然防衛的機能を持ったものと考えられる。城を中心とし、周囲を開拓して人口を増殖することによって、防衛を果たそうという意見のように思われる。
 この「石狩」は、具体的にどこを指すのか、『草稿』では述べられていない。十文字の『日記』明治五年十一月二十七日の項で、「余か十八年来北地を開くの策、樺戸エ一城を置キ勇払より川を開キ運輸を便ニスルの議を主張す」とあって、ここではカバトに築城することになっている。しかし、前述のように『草稿』を記した時点で、十文字はイシカリを含む西海岸を通ってはいないから、必ずしも具体的にではなく、かなり観念的にこの開拓意見を草したことも考えられる。
 なお、とくにこの時期以降、佐賀藩ほか多くの藩の藩士が蝦夷地に入って調査を行っており、かれらによる開拓論、建府論が記述された可能性がすくなくない。