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維新政権の成立

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 幕府による開国の決定以来、国内では新たに幕府勢力と反幕勢力との間で激しい政争が展開していた。しかし慶応三年(一八六七)十月十四日ついに将軍徳川慶喜は大政奉還の上表を提出(翌日に勅許)、さらに二十四日には征夷大将軍の辞表も提出するに至った。これに対し朝廷は、同年十二月九日薩摩・尾張・越前・土佐・安芸の諸藩兵の警護の下に、王政復古の大号令を発し、中央官制として万機を行う総裁・議定・参与の三職制を定め、従来の将軍を頂点とする幕府制のみならず、朝廷の摂政・関白を始めとする旧体制をも一挙に廃絶することを宣言したのである。
 翌慶応四年(一八六八)一月十七日、三職の下に七科(神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度)の行政機関を設け、中央集権的統一国家体制の建設に向けてスタートが切られた。この官制は政局の変転にともなってめまぐるしく改正をみる。すなわち慶応四年二月三日に三職八局制、閏四月二十一日に政体書に基づき太政官の下の七官制(のちに民部官を加えて八官制)、そして明治二年(一八六九)七月八日職員令に基づく二官六省(のち八省)制へと移るのである。
 他方新政権は、王政復古宣言のその日に慶喜に辞官と納地を命ずることを決すると共に、慶応四年一月三日に起こった鳥羽・伏見の戦を契機として、徹底した旧幕府勢力の覆滅に乗り出した。これが戊辰戦争として、二年五月十八日に、箱館五稜郭において榎本釜次郎(武揚)総帥の旧幕府軍が降伏するまで、継続したのである。