かくして慶応四年四月十二日、政府は箱館裁判所総督として軍防事務局督の仁和寺宮嘉彰親王を、副総督として清水谷公考と土井能登守利恒を任じ、さらに井上石見と岡本文平をも内国事務権判事・箱館在勤として同時に任じている。
しかし嘉彰親王は総督発令の即日に総督を辞任し、原官の軍防事務局督に復している。そのため同年閏四月五日に清水谷を総督に昇任させた。また土井利恒も、箱館赴任のため閏四月十三日京都を発して敦賀へ向かう途中に持病(疳鬱とあり)が起こり、回復まで赴任の猶予願を提出していたが、政府は同月二十四日副総督の職を免ずるに至った(同前 四)。
ところでここでいう裁判所とは、通常の司法機関ではなく、当時における一種の地方行政機関である。幕府では開港地や重要地などの地方直轄領に遠国奉行や郡代を配置して、特定要務や地方政務を処理していた。それらの領地を没収した新政府により、旧奉行や郡代に代わって設置したのが裁判所で、全国に一二カ所置かれた。旧幕時代に開港地としての箱館においても、その開港要務に当たると共に、直轄領とした蝦夷地の支配をも行使するため設けられていたのが箱館奉行であり、ここに新政府は、それに代わる機関として箱館裁判所を設置したのである。このように箱館裁判所は蝦夷地に関する地方行政機関であったが、さらに、四月十七日総督に達せられた「覚」の第一条に「箱館裁判所総督へ、蝦夷開拓之御用ヲモ御委任有之候事」(同前 三)とあるように、当時官制上外国事務局の管掌事項であった「開拓」の御用を、蝦夷地においては箱館裁判所がその責をも担うものとされたのである。
「蝦夷全島政務一切御委任」(同前 四)された清水谷総督は、井上(内国事務局判事に昇任)やその後に就任した小野淳輔・堀真五郎・宇野監物・山東一郎らの徴士・内国事務局権判事らを伴って、慶応四年閏四月十四日京都を発し、二十日敦賀出帆、江差を経て二十六日に箱館に入った。そして翌日旧箱館奉行の杉浦勝誠より政務を引継ぎ、五月一日に箱館裁判所を開庁したのである。
この蝦夷地全面の政務引継により、石狩に置かれていた旧箱館奉行所のイシカリ役所も、同年七月に引継を完了し、またイシカリ役所の旧幕吏の多くも箱館裁判所石狩詰として再任されたが、これらの事情については前巻(市史 第一巻四編九章四節)にふれた。