函泊事件の一報以来、議論を重ねつつも政府の方針はいまだ定まらない状況の中で、大久保参議は二年八月十一日に突如、自ら北地使節として赴かんことを三条右大臣に建言した。その主旨はロシアとの戦・不戦の大英断を下すべき状況下で、現地を親しく見聞して緩急違わぬ手順を樹立するための北地出張要請であった(大久保利通文書 三、以下大久保文書と略記)。これは受け入れられるところとはならなかったが、以降このような北地派遣問題とか、さらに加わる開拓長官問題などをめぐって錯綜していく。
岩倉は八月十三日に大久保に代わって東久世通禧の北地派遣と井上聞多(馨)の出張を考えている(岩倉関係文書 四)。この両名の派遣については、木戸孝允も八月十五日伊藤宛書簡において歓迎の意を伝えている(木戸孝允文書 三、以下木戸文書と略記)。また木戸は「副島已に魯を伐之論を立、此度之事副島黙視不仕事と推察」もしている(同前)。他方で大久保は、岩倉が東京府知事として推し、また寺島が朝鮮探索として派遣を望む外務権大丞の黒田清隆について、その両者の説を「少々見込も御座候ニ付」として押しとどめ、別の考えを秘めていた(大久保文書 三)。
また吉井幸輔は八月十八日大久保に、東久世を按察使(あぜち)として北地へ派遣し、それに自分も随行して北地問題の処置に当たらんと出願している。これに対しても大久保は、本年の計画はわずかに樺太・宗谷・根室へ浪人一〇〇人ずつの出張なので、「東久世にもせよ御出なくとも相済可申愚考仕候」として、東久世や吉井などの出張を否定する返答をしている(大久保文書 三)。