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東久世と島

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 上記のように、島の専断の具体的行為については必ずしも明白に指摘しにくいのであるが、ただいえることは、一般的に島には専断と映る行為も目につく。たとえば北海道赴任直前における自己の石狩出張要請とか、兵部省支配地の移管要請など、開拓にかかわる重大問題をはじめとして、「長官裁決」を超えて、中央の政府あるいは要人と闊達に直接交渉することが多々あったことは事実である。
 このような島と東久世の人物やその関係について、兵部権少丞北海道開拓掛から開拓権判官に転任して間もない大橋慎は、一月十九日痛烈な評を下した書簡を岩倉大納言に呈している。
創業之地ニ向ひ候者ハ勿論駑馬ニても不相成候得共、亦悍馬之御し難き□(虫、もカ)困却之事ニ御座候、此くらいの悍馬ヲ制馭シテ参リ不申てハ大業相運びも無覚束候得共、御スル人無之時ハ豈止ムヲ得ンヤ芒洋トシテ目的ナカランヨリ如カズ、区々トシテ実行アルニハ尚急速御決慮奉祈候事

と、東久世を駑馬、島を悍馬にたとえている。そして大橋のこの書簡の意図は、「島判官免職不被仰付てハ、長官奉職不被為整候旨、決然御申立之趣昨日長官ヨリ拝承」したのを受けて、島の処置をうながし、さらに「右之朝議判然之上ならで過日来相伺候開拓基本順序モ何も相始マリ不申、実ニ北地一日も忽カセニスベカラズと奉存候事」と、島の問題は北海道開拓全般にかかわる問題として、その処置の「迅速御運之義渇望」しているのである(岩倉倶視文書 国図)。