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島判官の転任

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 東久世の強い島罷免の要求に対し、政府は早くも一月十九日付をもって島に「御用有之、帰京被仰付候事」(百官履歴)と指令した。これを札幌で島が受けたのは二月九日ころで、直ちに発して二月二十三日に函館に到着した。ここで外国便船を待ち、三月二十一日出帆して同月二十五日に東京旧官宅に帰着している。
 ここでどの時点で作成・提出したかは不明であるが、三月(日欠)付の島の意見書がある。その内容は、今般五〇〇万両をもって東京・小田原間の鉄道敷設の計画がなされていることを伝聞したが、東京・横浜間ならば是認しうるも、小田原に至る鉄道は政体の軽重緩急からかんがみて不要であるとし、したがって「仰願ハ五百万両之半ヲ以テ、皇国之安危ニ相係候急務ナル樺太石狩府其外北海全州え、奥羽之土民其所を不得饑渇致居候者共ヲ御移被成候半ヽ、莫大之御仁政ト奉存候」と、鉄道計画再議の意見を述べている(副島種臣関係文書 国図)。
 さて三年三月二十五日に帰京した島は、その後の動向を十文字大主典をはじめ一四人の銭函・札幌詰の官員宛に、四月付で次のように報じている。
廿七日参朝条卿岩卿御逢被下見込書も差上候様御差図有之則縷々申上候、東久世長官其外にも面談長官も後悔之由に御座候、余程云々之有之事にて散々之評判に御座候、拙老にも彼是ト讒言を蒙り候得共朝廷御信用無之、弾正台より清実申上に相成居候由にて、豈図や一等御引挙ケ相成り大学少監に被仰付難有奉存候、乍然是は従来諸君御介助御尽力被下候故にて御なつかしく奉存候(後略)
(市史 第六巻)

 これによると、島は三条・岩倉両公と会い、「見込書」を差し出すよう指示され、詳細に事情説明をなしたこと、東久世その他の者とも面談し、東久世は後悔をしているとのこと、余程のことがあったとみえ(長官もしくは開拓使は)散々の評判であること、島に対し色々な讒言が浴びせられたけれども朝廷はそれらを信用しなかったこと、弾正台からも公平真実の開陳があったこと、以上の諸情況によって、島は責を問われるどころか、官位相当によると一等上がって大学少監に昇任したことを告げ、そして自分の行為を支えてくれた現地の官員達に感謝の意を表しているのである。その大学少監への昇任は四月二日であった。
 後日(三年九月二日)巡視の途次札幌に立寄った東久世は、その本府の建設状況を目にして「昨年判官嶋団右衛門雪中所経営也、然て同人会計出入成算至て疎洩、不得止東上他官ニ転任、其成績規模之広大ナル所感賞也」と記している(東久世通禧日録)。また島は八月十三日の十文字宛書簡で「東久世之評判も不宜、函館着之上岩村判官より取り入り相成候歟にて、右岩村之事もよき様に東京え申越相成候由にて、識者却て一笑いたし候由」(市史 第六巻)と書き送っている。評判の悪い東久世は、帰函後岩村を通じて中央政府に取り入ってもらおうとしたが、その岩村も自分をよい様に取計らってもらいたいと申し入れてきているので、世の識者は一笑している、との意である。