明治四年十二月、松本判官他各地詰の主任官が決定し、管轄地域も決定された。その際五年秋に「従来の顚末精細取調べ実施検査を遂げ」た報告会を開き、将来の方針を決定することも達せられた。その報告と将来の方針を決定するため、五年十月、黒田次官以下各地詰の主任官たちが札幌に集会した。この会議は、俗に札幌会議と呼ばれている。この席上で、岩村が黒田の東京滞留のために事業の進展しないことを指摘したことや、東久世閥対黒田閥の対立を原因として、黒田清隆と岩村通俊が対立したことになっている。この札幌会議に関する史資料は、現在のところ松本十郎の『蝦夷藻屑紙』、岩村の『貫堂存稿』と杉浦誠の日記のほかに昔話だけである。松本・岩村とも後日の回顧譚であり、この会議の席上で実際にどのような問題が起こり、なぜ紛糾したのかなど真相を究明するには程遠い状態である。しかしそれらと開拓使の公文書中から、その背景や状況をさぐることはある程度可能である。札幌会議の問題を本府建設問題にしぼって、その背景や状況を描いてみよう。