ケプロンの職制は、開拓使教師頭取兼顧問(Commissioner and Adviser of the Kaitakushi)である。彼は四年五月十五日(陽暦)在米中の顧問発令から、雇期中ながら八年五月二十三日の帰国の途につくまでの四年間、この職に従事した。着任時に六七歳のケプロンは多く東京に在り、北海道を巡検したのは東京または横浜発着の、五年六月二十日より十一月十六日(陽暦)、六年六月三日より九月十七日、それに七年五月十九日より八月二十六日の三回である。
在職中ケプロンは黒田ら開拓使の指示により、あるいは彼ならびに彼の下に補助者(Assistants)としてあった多くの技術者・技能者達の実検により、適宜顧問の職務内容に示されていた開拓事業に関する調査・報告・意見・助言等を数多く提出している。そして帰国に当たり、自己の「確実ナル旨趣ヲ会得セシムル為ニ」、それらを総括してまとめたのが『開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文』(Reports and Official Letters to the Kaitakushi)である。いまこの報文によって、ケプロンが北海道を対象に画いていた開拓構想の要旨をまとめてみると、以下の通りである。
ケプロンの開拓構想において、その施策は二つの開発手順に分けられている。一つは早急に着手して完成せねばならない開発の前提条件である基礎的画策、二つはその基礎的画策の上に展開すべき諸産業の振興策である。
第一の基礎的画策にかかわる具体的事業として挙げているのは、(一)気候・地勢・地質・物産などの調査事業、(二)地形測量ならびに地所の区画事業、(三)交通・運輸の整備事業、(四)移民の諸権利を保護する法規の制定、(五)衣食住等の生活にまつわる旧慣の変革運動、などである。
第二の諸産業振興策として、(一)産業の基本である農業に関しては、数百年来変化のみない日本の在来農業を否定し、多品種・施肥・有畜・機械等の導入と、換種法(ローテーシヨン)の耕作法に基づく欧米農法の採用をはかるべきこと。(二)林業においては、単純な原木供給を排して木材工業と関連させながら、製材、建築・鉄道の材料や家具類等の製造加工品生産へ転換すべきこと。(三)漁業でも、旧来の略奪的・独占的漁業を排して漁場の解放と漁業保護につとめつつ、移輸出に適合する加工品の開発と市場の開拓をはかること。(四)鉱業においては、その資源を調査の上大いに振興すべく、ただ資本を要する開採に際しては、民営を基本としてさらに外資の企業体をも考慮すべきこと。(五)工業に関しては、労力を省き開明の域を増大するため、機械による生産を採用すべきで、特に他産業と関連づけながら、本道固有の原材料を生かして、自給と移輸出にかなう工業を振興すべきこと、などとの意見を陳述している。そしてこれら産業振興策は、あくまでも第一の基礎的画策の諸事業を完成させた上で展開させるべきであって、これによって初めて開発の実効はあがり、また国益をもたらすものと説いている。
他方、開拓の主体たるべき移民に関しては、いずれの面においても拘束すべきでなく、自己の意志による自由な移民、いわば独立自営民の招来を期待している。そして「蓋シ、政府ニ信実ナル人民ヲ得ンニハ、随意ニ移住セシムルニ若カズ、夫レ自箇ノ利ノ為メニ移住シ、其地主タルノ権利ヲ有シ、其土地ヲ守ルノ責ニ任ズル者ハ、何レノ地ヨリ来ルヲ論ゼズ、即チ是国家ノ強兵タリ」とし、移民のために官がとるべき措置とは、移民の自由な招来と、彼らの自由な生産と営業を保証することのみにつとめるべきとしているのである。
以上の如きケプロンの開拓構想は、アメリカで当時進展しつつあった自由主義に基づくフロンティアと資本制生産様式の経験を背景としていたといえるのである。それに対し、ケプロンの構想を受容しつつ形成していく黒田の開拓構想は、当初大きな影響を受けたことは事実であろう。しかし結果を見ると、個別具体的には多くケプロンの施策を採用・導入しながらも、その根幹においては、官営主義と保護育成主義の貫徹した、ケプロンとは似て非なる方向に政策は展開していったのである。