水車器械所は五年二月、器械方頭取として招かれたアメリカ人N・W・ホルトが担当し、七月建築に着手、割地八〇坪二階建、地平より五尺下に土台を据えた。深さ七尺余、幅九尺、横一丈八尺に掘り下げ、水積一九四四立方尺の水槽を設け径四八インチの元車を装置し、創成川より木囲堀を通して引き水し、六年二月円鋸機二、竪鋸機一、柾挽機一、鉋機(屋根柾を製するもの)一、鏇(せん)床機(繰物細工に至便の器)一、小鉋機(額縁、建具類を製する器)一、粉磨機(麵粉其他穀類製粉)一を設置した。五月に円鋸、竪鋸、柾挽鋸、側削り鉋等の運転を試み、七年鏇床、円鋸、粉磨の三機を運転した。しかし元車の馬力が充分でなく、機械五種を漸次設置する必要を生じ、木鉄製三〇馬力元車一個を模造した。また梯子を架し、木囲堀より材木を直ちに楼上に曳き揚げるため三馬力元車一個を増設し、八年三月に竣工を見るに至った。五年七月の起工から二年九カ月を費したのは、構造の堅牢を主とし、且つ需要の品を東京に求め、また水路の堀割が積雪にはばまれた等のことによるものであるとしている。ホルトはこの年七月、奉職中勉励によるとの賞状をうけて解雇されている。なお十年二月水車器械所装置の竪鋸及び木鉄製元車が不便なので、円鋸及び薄板挽竪鋸を米国から買いこれと取り換えた。さらに柾挽器鉄製一〇馬力元車を模造し、その装置のため二階を増築している。
十一年十二月、創成川の水が凍って水車運転も不能となった。このようなことは毎年約三カ月間繰り返された。市街の井戸水もみなこの川が水脈なので、井戸水の減水で火防上の不安もあった。たまたま黒田長官が来札しこの現状を見て、幾人かの人夫を使って厚氷を伐り、流したところ流水は平常のように水車の運転もできた。それ以後これを例としたという話も残っている。