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学制と奨学告諭

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 現在までのところ、開拓使設置以前に現市域内で寺子屋などによる初等教育が、一応組織立って行われた史料は見出していない。札幌は、本州方面、あるいは松前、江差、函館のように、幕末すでに教育施設があり、それが明治に入って教育近代化の中心を担うということはなく、すべて明治以後の新設であった。と同時に内陸新開地としては急速に開拓・都市化が進んだため、その範囲では他に比して早期に教育施設が整備され、内容も整っていった。ここでは紙面の都合上、個別の学校の変遷等は略述するに止め、こうした条件下の初等教育の諸問題を重点に記述したい。
 日本の教育近代化の基礎は、いうまでもなく明治五年(一八七二)八月に頒布された「学制」である。学制は学校を小学・中学等に分け、修業年限・学科内容等を規定し、僻地のための村落小学校の制度も設けているが、同時に全国を八大区に区分した中で、北海道は東北諸県を区域とする第八大区が当分これを管轄し、他日分離すると定めたことから、北海道に対し直ちに学制を施行する意志は文部省になかったようである。事実、六年十一月に文部省は正院に対し「北海道学事着手之儀ニ付伺」で北海道も学事を漸次着手するだろうから、教育関係はすべて当省に協議するようにと伺い出、これについて正院から開拓使あて下問があり、これに対して同年十二月に開拓使は、未だ他府県同様に学制を施行の場合に至らずと答議し、正院から一般施行の時には文部省へ協議の上行うことと指令された。
 しかし開拓使札幌本庁は、それより先の五年十一月十八日付で、次のような奨学告諭を発した。
今般各村エ筆算教師ヲ被置、広ク教化を被施候条、一同御趣旨ヲ体認し各々子弟ヲモヲ(ママ)入学せしめ、怠惰なき様其親々ヨリモ厳重督促致し可申、尤教師たる者ハ専ら方今之時勢ヲ弁へ、上朝廷御開拓之御趣旨ニ基き、下自己之職業を不失様総て有用之学を務め急務之術ヲ脩ル様可心掛事
 農夫ハ農業を務ルハ専用之事ナレトモ、文字を知らす筆算を学ハサレハ人たる之道ニ背き、且農業とても其術ニ暗ケレハ、空シク力ヲ尽シテ収穫少キハ勿論、時に上ヨリ御觸達面も了解シ難ケレハ、不覚罪科ニ陥リ候義も可有之、誠ニ憐然之至ニ付、篤と其御趣旨ヲ弁へ可申事
 学舎ハ村中便宜之地ヲ撰ミテ村内合力ヲ以営構可致事
  但シ教師之宅ニても妨なし
  十一月十八日      開墾局
(市在諸達留 北大図)

 なお、この宛先は札幌郡の各村となっている。これは学制に直接対応したものとはいえないが、開拓使の開拓村落における初等教育創出の意志をみることができよう。