明治九年になると、雨竜小学校生徒はほぼ二〇〇人に達し、施設が狭隘となったので、開拓使は浜益通(北一条通)にこれにかわる学校を建設することにし、五月に新築費一四八〇円弱と見積った(開拓使公文録 道文五八三八)。五月に校舎が落成すると共に第一学校と改称され、八月に第一小学校となり、十月に後述のごとく「公立第一小学校則」を制定し、管内各校に配布して、これに準拠した規則を設けさせることとした。さらに十三年五月には同校教員に村落部の視察を行わせ、実況と改善策を報告させるなど、同校は発足当初から管内の基幹的初等教育機関として位置づけられていた。ただし、当時は公立といっても、経費は開拓使支弁であった。十四年七月に創成学校と改称し、札幌県設置と共に県立となり、創立期の仮師範学校附属小学校の機能を果たした。しかし附属小学校が設置されるに及んで、十六年十二月に区立に改められた。