十二年七月、黒田開拓長官は本庁書記官に書を寄せ、ヨーロッパの例も挙げて実業教育の必要な旨を達した。その要旨は、授業が「高尚に騖セ日常行事ニ心ヲ用ルヲ」知らなければ、「軽躁浮薄」(開拓使学務局沿革 道図)の人物を作る結果となるという認識を基本としたもので、必ずしも実技習得のみを目的としたものではなかった。これより先十一年八月に山鼻・琴似両校に農業現術の初歩を学ばせたが、これは両村が屯田兵村であるためもあって、必ずしも長官の達によるものではない。しかし十二年七月には第一小学校に附属園を設置して生徒に農業の初歩を教え、また同年琴似・山鼻両校に略則を定めて養蚕を実施させたのは、明らかに長官の意向を受けたものであった。さらに十三年二月には第一小学校に裁縫場を設け、規則を設けてその初歩を学ばせることとした。
おそらくこれらは実験的な意味もあったのであろう、十四年四月には第一小学校をはじめ、藻岩・山鼻・琴似その他近傍の学校の教員を集めて協議の上「農事規則」、「養蚕規則」を制定して管内の学校に配布した。