官が近代的な教育を行う上で大きな障害となったものの一つに、教員の問題があった。前述のように明治五年十一月に村落部で五人の筆算教師を任命した際、「固より農夫中ニハ其術ニ殊勝之者モ無之候得共、左之者共ハ可成指南モ相出可申人物ニ付」(筆算所一件)と、その能力にかなりの留保を付しつつ発令している。七年以降、開拓使は東京師範学校小学師範科卒業生の獲得に乗り出し、九年に二人の赴任をみた。また八年、開拓使は安田貞謹らを函館の小学教科伝習所へ派遣し、長期研修を行った。そして九年夏にはこれらの教師を講師とし、各村の教師を対象として、一カ月間の長期講習を行って小学教授法を学ばせた。これを含めてこれら新教師の活動により「管下一般授業ノ方法一定ヲ得テ、大ニ観ル可キモノアル」(開拓使学務局沿革)に至ったという。
このような既成の教師に対する研修等とならんで、地元における教員養成も始まった。まず十年三月、公立第一小学校に付設機関として修業年限一年の小学教科伝習場を設けたが、応募者が少なく中止となった。同年六月に官費夜学(修学年限原則として二年)に切替えたところ、屯田兵村からの応募が多かったこともあって、十二年中に九人の修了者を出し、師範学校が卒業者を出すまでは貴重な存在となった。なお、師範学校については後述する。