五年一月に、黒田開拓次官は正院あて「北海道ハ素ヨリ至寒ノ地、瘴癘ノ気甚シク、不馴ノ身体ニテハ自然一種ノ腫症ヲ発シ候様之儀有之、万一流行病等有之候テモ良医乏シク候テハ不相叶儀ニ御座候間」(開拓使日誌)、病院および医学校設置を伺い、認可を得た。同年五月に開拓顧問ホーレス・ケプロンは、医師兼秘書として伴ってきたS・エルドリッジに対し、函館で病院の規則を改正し、のち札幌に赴いて病院造営の方法を指図するよう命じた。これによりエルドリッジは五月に来函、七月に札幌に来て病院の造営について調査、協議を行ったが、同時に医学校設置についてもうちあわせなどがなされたようである。同年十月に七六坪あまりの生徒寮を建築し、官費生徒を募集し、官費生二五人、自費生二人の入学を許可し、翌六年一月に開校式を挙げた。教官は校長渋谷良次を含めて五人であったが、これは病院と兼務であった。
仮医学所は、翌六年に病院の移転にともなって札幌通りに移ったが、翌七年三月に廃校となった。