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神輿の市中渡御

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 遙拝所建設の許可を得た十一年六月に、神道事務局完成と併せて神輿(みこし)の市中渡御が行われ、ついで同年八月に、改めて同社大貫宮司名で「人民ヨリ以来御例祭之日神輿ヲ新調シ、市中ヲ御巡幸被為在候様」申出もありという理由で、例祭終了後の遙拝所を中心とした市中渡御を願い出、費用は「悉皆人民ヨリ差出義ニ付」(神社教導録 道文二四八〇)不都合はないとし、十月内務省の許可を得た。
 この伺による神輿の渡御は翌十二年から行われたが、初期神輿巡行等の世話人は、総代人の中から選ばれたようである。すなわち石川正蔵の『公私諸向日誌簿』によれば、石川は十五、十六年に世話係(惣代)を勤めているが、十五年は石川のほか工藤(梅次郎)、池田(新七)、亀田(平三郎)、刀根(孫四郎)の五人で、寄付金の募集その他の準備、「巡行御供」から後勘定までを行っている。
 以上、社地の市中移転、遙拝所の市中建設、神輿の区中渡御の一連の動向をみると、市中移転願は祭祀・参詣の不便を主な理由としているが、遙拝所は土地・建物とも区民の寄付によってつくられ、神輿の渡御も区民の費用でまかなわれた。とすれば、社地の移転についても、区民有力者の意思が働いていたのではないかと思われるが、これの持つ意味については、次編で祭典の問題と併せて記述する。