札幌基督教会が教会としての基盤を確立しつつあった十九年三月九日、W・S・クラークは、内村鑑三が留学中のアマーストで満五九歳の生涯を終えた。彼の晩年は、鉱山経営の失敗からそれまでの名声と財産を一挙に失ったが、臨終の床で彼をみとった牧師ジッカーマンに、クラークは、「余の生涯の事業にして一として誇るに足るべきものあるなし、唯日本札幌に於ける八ケ月間の基督教伝播こそ余が今日死に就んとする際余を慰むるに足る唯一の事業なれ」と語った。ジッカーマンは、内村にこのことを本国へ伝えよと述べた(内村鑑三 黒田清隆伯逝く―福音新報―二七二号)。
この頃札幌の諸教会は、宣教開始の時期から、市民に根を下ろしてゆく時期に向かいつつあった。カトリックと正教会は宣教後まだ日が浅く、教会として確立したものとはいえなかった。諸教会のなかでは、プロテスタントの札幌基督教会が最も有力で、ほとんど札幌のキリスト教界を代表する地位にあった。札幌基督教会は、この時期の終わり頃には、札幌農学校の枠を越えた、多くの人びとによって担われる教会となった。教会員には学生や農学校関係者よりも商人や官吏、婦人たちの比重が増していた。礼拝に集う層も多様化し、「札幌バンド」はすでに集団としての求心力を失いつつあった。その分だけ、市民への広がりをみせていった。
同教会の宣教開始期の性格は、その後の教会の歩みを方向づけていた。クラークの伝道を契機として誕生した教会は、独立・無教派を標榜した。設立の経過から教会政治のあり方には会衆主義をとったが、同時に合同教会として教派の協調を求める立場をとった。また簡素な信条を採択した。これらはクラークが教会の自由・自立、信徒の自治を信条とした会衆派の教会に属し、煩瑣な儀式や神学上の議論を好まなかったことと一脈通ずるものがあった。
また彼が、「異邦人」の改宗者獲得を事業として成果を競った教派・ミッションの活動とは無関係であったことも、札幌基督教会にとって自らの教会制度を自由に選択する上で幸いしたといえよう。そして明治二十年代以降、後発のプロテスタント諸教派の教会は、札幌基督教会を軸として、教会間の協力関係とそれぞれの自立自給の体制を築きあげてゆくことになる。