以上の開拓使官有物払下出願は、要するに一〇年計画の下に遂行してきた北海道開発事業が未完のまま定額満期を迎え、さらにその完結のため開拓使の存続を求めたが廃使と内決された現状で、なおその事業の貫徹を目指して黒田が案出した最後の手段であった。そのため是が非でも実現しなければならなかった。この間の黒田の言動を、さきにもふれた熾仁親王宛の書簡の中で嘉彰親王は次のように伝えている。「固より巷説に過ぎずと雖も」と断りながら、払下出願に対し「閣議之れを即決せず、不日北海道を巡幸あらせらるゝに由り、実地天覧の後に於て之が可否を決定せんとす、黒田大に憤怒し、高官某に面して暴言を吐き燭台を抛ち、乱暴至らざるなし、乃ち高官某、巡幸発輦の日、千住御昼餐所に於て払下の事情を具奏し、其の裁可を得たり」(明治天皇紀 五)とある。かくして十四年八月一日「上請之趣特別ノ詮議ヲ以テ聞届候事 但従来ノ収税法改革有之候節ハ此限ニ非サル義ト可相心得事」(公文録 開拓使)と、出願第一項に関し但書が付され、払下げは許可されるに至ったのである。
ところがこの払下許可が世上に流布されるや、世論は沸騰する。国会開設運動が高まりをみせていた折でもあり、払下物件の実価は約三〇〇万円に上るとして、それを三〇数万円の三〇カ年賦で払下げる不当性に、また払下げの背景に関西貿易商会ありとして、藩閥官僚と政商の癒着に、そしてそれらを容認した政府に対し、激しい非難攻撃の火がふき、さらにこれによって油が注がれて国会開設運動は全国的に高揚していった。
この大きな政治的危機に直面した政府は、天皇が北海道・東北諸県の巡行から還御した十月十一日に直ちに御前会議を開いた。そして翌十二日に、詔勅をもって明治二十三年を国会開設の期と定めると共に、また政府部内で急進的な国会開設論を主張し、また払下反対運動にも背後でからんでいると目されていた大隈参議を罷免し、合わせて開拓使官有物払下の取消と、一挙に政治危機に対し収束の手を打ったのである。その時の開拓使に対し発した払下取消の指令は、「先般其使所属官有物払下聞届之儀及指令置候処、詮議之次第有之更ニ取消候条此旨相達候事」(公文録 開拓使)というものであった。世にこれを明治十四年の政変と称している。