市街に家作料貸与を受けて住居を建てた人びとは、一〇カ年賦で返済することになっていた。ところが、六年に本庁舎をはじめ官邸や諸施設の建設が一段落したため、工事関係者が札幌から退去しはじめた。このため札幌市街の商業活動はストップし、店をたたんで貸家にしたり、仕事をもとめて出稼など転出する者が相次ぎ、空家が急激に増加した。市街七〇〇戸のうち一九〇戸が、すなわち全体の四分の一強が空家になったといわれている。開拓使ではこの対策として、七年十二月家作料取立の方法を変え、上・中・下三等に分け毎月一円から二五銭の納入(従来は年一〇円ずつ)に義務づけた。開拓使がこの時点で調査したところ、出稼・出京等を理由に空家になった家が三一軒、商業活動が思わしくないので貸家にした者が一三軒もあった。結局、翌八年一月出稼等一家で出奔して帰郷する見込みのない二六戸の建家を没収することとし、拝借希望者へ貸与することとした(開拓使公文録 道文六〇二二)。一方家作料取立の方はなかなかはかどらず、このため八年六月七日付で、家作費貸与の時点で建てられた家屋は粗悪な作りであるので、「出格ノ詮議ヲ以是迄貸付置候営繕費ノ内二分方上納八分方下賜」と決定、一〇〇円のうち二〇円のみ返済すればよいこととし、その代わり毎月一円ずつの返済を義務づけた(布令類聚)。また同年十二月には、家作費未納者の家作譲渡を禁止する布達を出し、家作費納入をうながした。新規に家作費貸与を願い出る者への転用があったからである。