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授産事業

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 樺太アイヌが移住した地点は、石狩川河口から約一〇里ほど溯行した左岸で、札幌郡対雁村と呼ばれていた。そこには開拓使勧業課の出張所が設けられ、勧業課員と「土人取締官」が配置され、「勧農」と「教育」とがセットで行われた。
 まず授産事業として、漁業に春秋二期のみ従事し、男子は農業、女子は製網をもって自活するよう三年分の予算措置がとられた。試みに予算額を掲げてみるに、家屋建設費(初年のみ)五九六〇円、米塩料(三年間)二万八一二七円九二銭五厘が計上され、このほか貸与という形で漁業資金(三年間)一万七六九二円三〇銭七厘が見込まれていたのみであった。結局のところ三年の扶助期間終了時においては、少しの成果をあげることもできなかった。たとえば指導に最重点をおいた農業では、作付面積はわずか一町六反五畝六分にとどまり、作付された馬鈴薯など一一種類の収穫もきわめて不良であった。このため農業に投資した経費が収穫高をはるかに上回る結果となり、年々の累積赤字となった。一方の漁業においても同様で、樺太アイヌ側の強い要望によって授産事業に加えられたにもかかわらず、期間が短い割に設備投資に経費がかかり過ぎ、扶助期間終了時には返済はおろか、多額の負債をかかえこむにいたっている。貸与はこの後も続行されたが、十四年の大洪水により購入したばかりの網を失うなど、農業同様成功していない。
 こうした授産事業で、比較的順調に進展したと思われるのが製網事業であった。これは漁場労働に参加しない女子に与えられた事業であるが、開始時四〇人であったが、順次拡張にともない三年目には一〇〇人を超え、十四年の内国勧業博覧会に出品して賞を得るなどしている。