(前略)夫レ新聞ノ多キ雑誌ノ夥キ方今ヨリ盛ナルハナシ(中略)而シテ各社皆其主トスル所アリテ、或ハ政体ヲ論シ、或ハ法律ヲ説キ、或ハ時勢ヲ評シ(中略)要皆人ヲシテ輿情(衆民の心)ヲ察知シ、知識ヲ闡発セシムルニアルト雖トモ、抑又其人ニ応シ其境ニ適スルニ非レハ恐クハ其効ヲ致スコト能ハサランコトヲ、何トナレハ今夫レ漁人ニ説クニ樵牧ノ利ヲ以テシ、樵者ニ談スルニ漁獲ノ便ヲ以テスルモ啻ニ感覚ノ鈍ナルノミナラス、或ハ棄テ以テ無用ノ談トナサン(中略)今我北海道タルヤ開明日猶浅シト雖トモ土壌肥沃、産物豊饒(中略)是ニ於テカ移住ノ民日ニ殖シ、開墾ノ業月ニ興ル豈盛ナラスヤ、此時ニ際シ斯民ヲシテ愈輿情ヲ知ラシメ、知識ヲ闡発セシムル夫レ唯新聞ニヨリ善キハナシ(中略)記者善ク意ヲ全道ノ現況ニ注キ、苟モ開拓事業ヲ進歩セシムル事項ハ網羅蒐集陸続登録シテ、彼ノ漁人ニ山ヲ説キ樵者ニ海ヲ談スルカ如キノ弊ナカランコトヲ望ム(後略)
すなわち、要約すると『札幌新聞』はあくまで開拓事業の「進歩」のために存在し、「政体ヲ論シ、時勢ヲ評」することは「漁人ニ山ヲ説」くと同様無用であるということである。さらに編集人が開拓使出身者であり、かつ後述するが、印刷は開拓使の札幌活版所で「無代価」でなされていることを併せ考えると、開拓使がほとんどこの新聞の死命を制する存在であり、その意向を逸脱することは不可能に近く、さらに当時、札幌で真の言論機関設立の条件が整っていたかも疑問である。というより創立それ自体に官の意志が強く働いていたとみるのが至当であろう。
同新聞は二〇号までは美濃紙四ツ折で表紙を含めて一二丁前後の小冊子で一部三銭、二一号以後は西洋紙半紙判四頁建て、一部一銭三厘となった。印刷部数は約五〇〇部といわれる。主な内容は開拓使録事、雑報、投書、小樽相場、広告等であり、投書欄で時折時論的なものが見られるが、数は少ない。また三六号(十四年四月六日付)には社説とみられる論説が掲載されている。