十九年一月北海道庁の設置と共にその管理下に移された諸事業について、岩村長官は財政緊縮政策の一環としてこれら諸事業の整理方針を決定し、同年五月官営の農工業場存廃の義を上申した。これにより事業を停止した工場は札幌では鉄工場、木工場、厚別木挽場、製網場、石狩缶詰場等であるが、同年松方大蔵卿による紙幣整理が一段落して兌換制度が確立し、そのため経済界は十四年以来の不振から脱して企業勃興の気運が見えてきた。このようなもとで岩村長官は六月四日付で、「農工業場払下及貸下之儀伺」を提出し、前記上申で廃止または中止するとした諸工場を払下げ、あるいは貸下げの方針に切り換え、その七月上京して有力実業家と懇談し、北海道開拓への協力を求めた。かくて翌八月からの山県有朋、井上馨両卿の北海道巡視には三井合名の益田孝、馬越恭平をはじめ大倉喜八郎、小室信夫ら実業家が参加したが、これによって岩村が意図した「資本ノ移住」がどれ程なされたか疑問視する向きもある。
時に官営工場で移輸出品として販売力をもち、各地に起こりつつあった一番魅力のある麦酒醸造場を大倉喜八郎が払下げをうけ、他の工場は多く市内の商業人が払下げをうけた。